なぜ信者は教祖の復活を祈り続けるのか?「今からでも間に合う!幸福の科学入門」(後編)【もっちりーま】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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なぜ信者は教祖の復活を祈り続けるのか?「今からでも間に合う!幸福の科学入門」(後編)【もっちりーま】

宗教二世問題から考えるべきこととは(後編)

 

■10.「宗教的」な日本社会、「科学的」な幸福の科学

 今行われている隆法氏への「新復活祈願」は教団が「最後の稼ぎ期だ」と計画を立て、「お金を集めないと総裁先生は復活しない」と信者を煽って行っているわけではなく、単に「まだ亡くなってほしくない」と始めたことの収拾がつかなくなっているだけだと思います。幸福の科学の教義から見ても、人は亡くなってから24時間後に、肉体と魂を繋ぐ「霊子線」という線が切れ、あの世への旅を始めるため、死後数日経っても復活を祈り続けるというのは例外的な状態です。

 しかし、この状況を招いたこれまでの歴史、特に「奇跡」の意味が変わってしまったことを踏まえて、それぞれの教義を捉え直してみると、個々に「祈願」や「お布施」が煽られてきたのではなく、初期から一貫した理念と世界観、つまり信仰行為を行うための「根拠」があり、その「根拠」を支える言説が、社会へ打ち出したいメッセージや内部の体制が変更される度に、霊言、教義を利用して作り上げられてきたことがわかります。

 だからこそ、社会と宗教の対話は難しいのです。社会側、その信仰を持たない人から個々の教義や信条を「おかしい」と言っても、信仰側からすれば「論理的」に考えて「正しい」と言えるのです。「お布施が高額だ」とか「強要された」と言っても、教義はむしろそれを防ぐ内容になっているのです。

 「霊言を批判しても意味がない」、「お布施の金額を指摘しても意味がない」と私が考えているのはそういう意味です。私たちが「おかしい」、「非科学的だ」と思うように、それを「正しい」、「これこそ科学だ」と思い、自らの意思で選択して崇拝行為を行う人がいるなら、教義を論点にし続ける限り、両者の間には決して議論が成り立ちません。議論が成り立たない、建設的な批判ができないということは、最終的には暴力的な方法でしか主張ができないということです。

 

 これは「理性」と「信仰」、「科学」と「非科学」、「世俗」と「宗教」の対立なのでしょうか。

 幸福の科学、隆法氏が行おうとしてきた「科学と非科学の融合」、「諸学問、諸宗教統合」とは人類の歴史上特別新しい試みではなく、むしろギリシャ哲学からイスラム哲学やイスラム哲学、それを経て起きたキリスト教神学論争、中世の科学革命、現代の紛争分析学など、人が他文化と出会ってから継続して取り組んできたテーマです。

 しかし幸福の科学が「科学」と言えないのは、「非科学的なオカルト」を信じているからではなく、あらゆる現象の説明が、これまで積み上げられてきた学問的議論を無視した独りよがりなものだからであり、常により良い説明を求め、自らの説明さえ疑うという批判の伝統を否定する、ただの権威にすぎないからです。

 最初の理念、「正しき心の探究」や「諸学の統合」が信者にとってどんなに素晴らしいもので、説かれる教義が良いものであったとしても、理論が簡単に変えられること、理論を変えてまで維持しなければいけない組織というものがある限り、「科学」に取り組むことはできず、宗教団体の最初の理念や教義とは違った行動や文化、結果をもたらします。

 

 同じようにカルト批判をしている人々を見た時に、これまでの学問的議論を踏まえてカルト批判できていると言えるでしょうか。幸福の科学研究自体は多くありませんが、どのようなものが「カルト」と言えるのか、ある宗教団体を「カルト」と呼ぶことの是非、宗教団体の教義を否定してコミュニケーションを取る危険性、「洗脳」や「マインドコントロール」についてなど、「宗教」と「世俗」、「信仰者」と「批判者」の議論を成り立たせようという建設的な取り組みがこれまでもあったはずです。

 その取り組みを無視して、目の前にカルト被害者に「それはカルトだ」と諭し、その苦しみを「救済」する正義は事柄としては納得しやすいものです。しかし宗教も同じように、独りよがりな論理で常識を疑わせ、社会の構造的矛盾や不平等、制度的に救われない苦しみから人を「救済」しようとしてきたのです。

 もし「宗教二世問題」や「カルト問題」を解決しなければ、と思うなら、ある団体や集団についてその全てを宗教的、わかりやすいカルト的要素によって説明するのではなく、教義を踏まえ、それと現実の信者の行動には飛躍がある、という基本的な社会学、人類学的な認識が必要ではないでしょうか。

 カルト被害者や宗教二世の体験談が尊重され、そのまま受け入れられるべきだと考えるのと同時に、その口述史料がカルトのレッテル貼りに都合良く利用され、消費されている事態は、個々の体験を尊重することと真逆ではないかと、今の二世問題に取り組む人たちの姿勢を強く懸念しています。

 特に幸福の科学は、救済に家族やコミュニティが関係なく、服装や習慣に戒律がないため、社会的な生きづらさや被害を主張しにくい宗教です。その中でメディアや発言力のある人が、文脈を無視してわかりやすいカルト的な部分のみを発信することは、信者や二世への差別を助長するだけでなく、被害者同士の認識の差異を強調し、被害が主張しにくくなる悪循環を作っています。つまり、最初の「宗教被害を解決すべきだ」という意図や、「被害の声を上げていくべきだ」という主張が真っ当なものでも、それまでに積み上げられてきた議論を無視し、論理、言説、体験談が利用され歪んでいけば、幸福の科学と同じように、当初の目的とは違う結果をもたらしてしまうのです。

 

■11. 結語

 「宗教二世」という単語が広がり、概念化されたことは、「親に信仰者を持つ子供」の共通性を強め、子供の自己決定の権利侵害という、これまで見過ごされきた問題に光を当てることを可能にしました。

 しかし、「いじめ」という言葉が「学校という閉鎖的な空間で行われる嫌がらせ」という特殊な環境や状況を浮き上がらせたのと同時に、「警察の介入が必要な犯罪行為」という意味を薄めてしまったように、「宗教二世」という言葉が個別の事象を切り捨て、解決に必要な何かを見逃してしまう、神話化されないように考えていく必要があるでしょう。

 

文:もっちりーま

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もっちりーま

もっちりーま

幸福の科学学園高等学校卒業。慶應義塾大学卒業。現在トルコの大学の大学院で修士課程。専門は比較文化、比較教育、思考表現スタイル。アンカラ大学にてトルコ語修了(C2)EDEP(イスラーム学卓越教育センター)奨学生。https://twitter.com/Haruharuzo

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